走りっぱなしの夏‼

空港で長期滞在組を見送って・・・9月後半の東京での展示会まで,縮まりはしたものの私の”夏休み”が始まるはずでした。

先ずは今年の夏、何時もお世話になっている宮崎の友人夫婦、8月生まれの二人のバースディと何と喜寿のお祝いです。今年は特別のイベントを心を込めて用意しなくっちゃ‼夫君のH氏にはシャツを作って・・・と空港から帰って早速アトリエで快調に作業を始めました。翌日早朝、一本の電話・・・施設にいる義母が緊急搬送されたとの知らせ。介護の方の話によると義母は昨夜食事を完食して・・・夜明けのトイレの後急に異変があり緊急搬送になったらしい。電話を受けてそのまま隣町へと走る。市立病院まではここから急いで40分余り・・・いろんな事が頭を巡る。穏やかな母が逝ったのは私が21の時だった。あれから私は結婚し子供がちょうど一歳になった頃、世話してくれる方があって父は再婚した。我が儘娘だった私は何一つ少女のような母の気持ちに寄り添うことなく青春を突っ走り・・・辿り着いた先に戸惑い暮らしている頃だった。人とのしがらみが改めていろんな事に気付かせてくれた。だからこそ母に出来なかった事を父と結婚したこの義母にいっぱいしてあげよう・・・そんな気持ちだった。けれど・・・そんな想いは届かなかった。私を産んだ甘やかな母と暮らしたのは僅か二十年・・・距離のある人を母と呼び、あれから50年の月日が経っている。父とも兄とも語らず、語れず・・・実家はそれぞれに遠い思い出の町へとなってしまった。父も寂しかったろう。その父が亡くなって二十年余り・・・義母は早くに兄とも決別し私を頼るしかなかった。90を過ぎた老人となった今も呵責なく人を誹る義母は健在で・・・だから親切には接したが私の気持ちは遠かった。その義母の死期が迫っていた。いよいよなのか・・・医師の「もう充分な年齢を生きられた・・・」との説明を聞きながら、この猛暑続きの日々、もう意識もなく昏々と眠り横たわる義母に毎日義務とばかりに会いに行く。

そんな日々の中、突然のメールだった。「Y氏が今亡くなりました・・・」あまりに思いがけないメールだった。地元では有名なこの画家Y 氏の死去を彼が理事を務める美術館の館長が知らせて来たのだった。嘘‼嘘でしょう⁈・・・ついこの間も私は彼と電話で話してる。5月初め二ヶ月半のスイス滞在・・・出発二日前に我が家で彼の壮行会をした。コロナで社会が滞った時間を経て・・・向こうに出来た彼の知人が家を提供すると申し出てくれたらしい。「何で今行くの?ユーロ、高すぎるでしょう」と言えば「・・・今行かないと行けない気がするから。」その日食事しながら、そんな答えが彼から返ってきた。何時もなら客をしてそんな写真など撮らない私が何故かこの時の彼の写真を撮っている。あれからパリに住む娘がスイスに滞在中の彼を訪ねている。彼女が一緒に過ごした三日間・・・彼は生れてから起伏に富んだ彼の人生をずっと語り続けたらしい。パリに帰り着いた娘は何故か温かな気持ちに満たされ泣けたという。その後メールで彼が「自画像を描いたよ・・・」と送ってきた。「珍しいじゃない?自画像なんて・・・」色鮮やかな彼の画風とは一変したそれはセピアの自画像だった。あれから・・・二ヶ月余りの滞在を経てスイスを出る空港からの電話で、語学の苦手な彼がすったもんだしたという話を私は笑いながら揶揄っている。「今着いた・・・」「家に寄りますか?」「いえ、もう真っ直ぐ帰ります。」まだコロナの後の喘息のなごりにいた私は電話に出ないまま・・・その日、夫が掛ってきた電話でそう声を掛けている。夫とは一歳年上のこの画家を彼は同じ絵描きとして敬愛していた。だから生意気な私はため口、夫は仲良くしていても言葉を崩さなかった。それから彼からの電話はなく・・・付き合いの多い人だからきっと忙しいのだろうと私は思っていた。連日テレビは記録的な猛暑日と訴え、私も義母のことで気もそぞろの日々の中にいた。5日ほど経って「もしもし・・・」絞り出すような彼からの電話の声に驚いた。日本に帰り着いた途端コロナに掛ったと判明、咳き込みがひどく声も出ず、帰国から初めて人と喋ってるのだという。コロナで私自身と同じ経過を辿っている彼の症状に「・・・そうでしょう⁈」そう言いながら電話を切っている。今思えばあの頃義母のことで忙しく動き回っていた私に配慮が欠けていたのかも知れない。それからまた一週間余り経って「今から点滴を打って貰う・・・入院も出来ないらしい。」その頃地元ではコロナが蔓延していた。そんな電話が最後だった。そのまま点滴を受け彼は帰途につき・・・それから一人暮らしの自宅で意識を失っている。連絡の取れないのを発見されて緊急搬送され・・・彼は逝ってしまった。親との縁が薄く、独学で絵を始めて早くに売れっ子の画家となり中央の画商がついていたが・・・浮き沈みを掻い潜りながら彼はそのまま何処にも属さず田舎に燻り泰然と暮らしていた。大らかでにやりと笑いながら揶揄ったり・・・癖の強い私達と違いそんな彼が人生を退いていく人達の世話を人知れずしているのを知っている。茫洋と何時も温かな眼差しの苦労人だった。「何故・・・」彼の死はあまりに思いがけなく突然すぎた。ずっと以前から知ってはいたが、彼が我が家を出入りするようになって二十年余り・・・我が家の子供等とも絡んで馴染んでいた。そして去年、その彼が夫に展示会の話を持ってきて・・・彼が理事を務める人里離れた美術館で彼を中心に若者を入れた「交差点」という四人展に夫も参加している。それを切っ掛けに夫の絵がその美術館で常設されることになった。自負がありながら絵描きとして自分のあり方に拘り続けた夫に一番良い形で光を当ててくれた人だった。彼がいなくなった。まるで見えない死に向かって布石をするのように・・・彼自身そこに向かっている。展示期間中、夫と彼はよく話をしている。あの秋・・・こうなる事が分かっていて彼が計らってくれたのかも・・・そんな気がしてならない。私も夫も子供等も・・・こんなに彼を愛していたのだと今更ながら泣けた。そして彼からの愛を一杯感じている。

彼の死から4日後、いろんな想いをのせて義母が旅だった。90半ばで年に不足もなく・・・ある意味大往生だった。私が喪主をしなければならず・・・義母と決別していた兄を説得して葬儀には来て貰った。葬儀の前日に兄から呼び出しがあり、慌ただしい最中義母のいた施設近くで落ち合う。父の結婚で・・・兄も私も、そして父自身も色んな苦い物を味わっている。「何故?」という兄の問いに「もう向こうに行ってしまった私達の父と母のために・・・」今は和やかに向こうの世界で暮らしているはずの両親・・・二人から命を貰った私自身が誠実に生きると言う事、それが二人への愛と思っている。義母も縁あった人・・・だからどんな経緯があったとしてもこの世から綺麗にバトンを渡せねば・・・私自信、葛藤がありながらそう義母に向かい合ってきた。そんな意向をようやく兄も分かってくれたのだろう。「これまでご苦労様・・・」と、夫も私もいらない・・・と固辞したものの夫には数本の酒と彼の志の封筒・・・そして私にと温かな眼差しで「これはあなたへのプレゼントとして買って置いたもの・・・」1オンスの金のメダルが同封されていた。行き違った経緯が長かったものの、あぁ、私を妹として想っていてくれたんだ・・・小さな金のメダルは温かだった。それをにこやかに笑う兄はやはり屈託のない善人と思えて嬉しかった。そして・・・つつがなく義母の葬儀も終えられた。申し訳ないほど哀しみもなく・・・夥しい死に纏わる雑事をこなしながら長年のお勤めを終えた気分だった。役所関係から施設関係全てを駆け足で巡り終えた翌日・・・今度は強烈な台風直下だという。思えば私自身のコロナからこの夏ずっと走り続けている。「もういい加減にしろ!」そう叫びたい気分!隣町ある義母のいた施設での精算とお礼が済んで帰りしな・・・車で走ればもう海が荒れ始めていた。

台風に怯える夫のために避難所へ・・・もうこの時はギンギンにビール冷やして、お花見弁当?朝から作って翌日の朝食まで準備してと・・・大きな建物の畳敷きの大広間で台風の通り過ぎるのを待つ。「もうこれでこの夏のミッションは絶対終わり・・・だよね」と、翌朝渋る夫をせかしながら家路に着けば夥しい我が家の庭の木々の葉っぱがそこら中に散乱!台風がさほどの影響もなかったよう・・・けれど安堵の暇もなく、気持ちよれよれでへたり込んでる夫をよそ目に、私は人様の家にまで吹き込んだ我が家の葉っぱどもの撤去に掛りきりでした。

そして翌日いよいよ仕事開始‼とアトリエに入れば何とクーラーが壊れていました。もう二十年使ったしなぁ・・・想定外クーラー高額購入でこの夏の休み無しミッション終了‼と、思います・・・。勿論、宮崎の友人夫婦へ・・・多忙すぎてふらふらになりながら、合間,合間でシャツを作り、薬箱を作り、喜寿祝いの書き込みアルバム作って・・・S姉へ奮発の秋色の上衣添えてお祝い果たしました‼

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です