昨年コロナに始まって初夏からの多忙さ・・・つい先だっての箱根マラソンを一人で駆け上り降りたような目まぐるしい日々が遂に大晦日で終わりました。まだコロナの名残が癒えない内に継母が倒れ、炎天下病院に通いながら友人の突然の死、相次いでその継母を見送り・・・残された事務処理に始まる諸々の後始末をしながら12月まで三つの展示会を熟しました。これもあまりの多忙さ故の調整ミスで更に多忙になった次第。師走になって東京から帰り着き後の注文を熟し・・・その間、これまでの疲れからか風邪をこじらせ長引きながら、今度はクリスマスプレゼントをネットで探しまくりお取り寄せ!品物が届けばカード書いてラッピングして・・・家族16人分のプレゼントの用意です。それがぎりぎりようやく終わって「もう今年は良いんじゃない?」夫にそう言われながら何時ものように中庭の前にクリスマスツリーを飾れたのがイブ前日の夕方。子供等が巣立った後もずっと続いていた恒例のクリスマス会も3年前から新年会へと変わって、それまで何時も慌ただしかったこの日を夫婦二人だけでゆっくり過ごすようになった。陽がとっぷり暮れて・・・ツリーのネオンの点滅。ガラス張りの向こうで親指ほどの太さだった中庭の柏の木が大きく育ち枝を広げ、今はゆさゆさと手の平のような枯れ葉を中庭いっぱいに落としている。あの頃、子供等の歓声が響き、ツリーの根元にいっぱいのプレゼントを置いて・・・4人の子供等の目が輝いていた。幸せの渦中にある者はそれに気付かないものらしい。あの喧噪は幸せの音だった。あの頃「何時になったらこんな給食小母さん?から解放されるんだろう・・・」子供等のさんざめきの中でそう思っていたっけ。今のゆったりした幸福感に浸りながらあの喧噪を懐かしむ。子供等が育った今・・・その夜、彼等もあの頃の我が家のように大きなツリーを囲んでそれぞれの家庭から幸せなクリスマス動画が届いた。
気付けば長い間私は肩で息してるなぁ・・・暮れ、恒例の友人等のお泊まりのために障子張りをしたぐらい・・・私の疲弊した体調を見かねて今年はあの夫が大掃除に奮闘してくれました。せめて・・・と遅れても書いた月一のブログ、12月は年内には書けないまま年が明けてしまいました。昨年、私がアトリエで作業中、大掃除を買って出た夫が古くからの友人みっちゃんからの葉書を持ってきました。私が玄関横に置いた李朝の箪笥の上に旅で持ち帰った異国の古いティーポットを並べ、その前にゆかりある人からの数枚の絵葉書をファティマの手の紙挟みに挟んで置いた・・・その中の一枚、みっちゃんからの葉書でした。
みっちゃんは私達の友人・・・彼が亡くなって6年になります。「迸る水のような・・・」以前、私は彼のことをエッセイの中でそう書きました。へんてこで生き方の上手くない売れないゲージュツ家みっちゃん・・・哀しいほどに純な彼は子どもも含めた私達家族に愛され、そして愛されていると分かっていて年上の彼は私達に犬っころのように甘えました。夫が持ってきた葉書・・・それは20年前のみっちゃんからの葉書でした。夫が早めのリタイヤをして、その条件の一つとして「私とトルコからサハラ砂漠まで陸伝いの旅を・・・」その約束通り、三ヶ月に及ぶ長旅から帰ってきてからのものだと思われます。私が42才・・・義父が亡くなり、色んなしがらみを断ち切るように海辺に家を建て移り住んで私達が私達らしい暮らしを始めた頃です。一泊の旅さえ許さない夫から奪い取るように決行した一ヶ月の異国のへの独り旅、あれから旅する女の始まりです。私はそんな独り旅から帰る度に、友人等に旅の話に添えて小さな瓶に電車の切符や道ばたの小石など旅の欠片を詰めてお土産として送りました。渋る夫と共に初めて一緒に出た長い異国への旅・・・当然、その時も帰り着いてその長い旅のエッセイと旅の欠片の瓶詰めなどを彼にも送ったと思います。その後彼が我が家に遊びに来て・・・そのお礼の葉書と思われます。葉書には彼らしい子供のような書体で小さくきっちり並んだ文字が綴られて、彼の照れてとつとつとしたあの声まで聞えてきそう・・・みっちゃんの思い出にその全文を載せたいと思います。
「日中はまだまだ暑いですが、朝夕は少し秋らしくなったようですネ。九月二十八日が中秋の名月、しっとりと自分の「生きること」を考えてみたい。この前はお世話になりました。お話を聞きながら、時間が経つにつれて二人の旅がもっともっと素晴らしい旅だったように思われます。人生の財産ですネ。小生、苦しいですけど夫婦二人で小さな旅でもしてみたいものだと二人を見て思います。Kの家の方はみんな天国に行って小生一人です。皆のことを思い浮かべながら一日一回は涙ながしながら秋の夜長をくらしています。改めて今の家族のことを大切にしなければと、二人を見ながら思います。二人は小生のことをいつも真剣に心配してくれることを心から感じ力強く思います。ありがとう。生き方がへたで迷惑掛けますが末長く付き合ってください。」
あれからもみっちゃんは我が家にやって来た。楽ではない暮らしの彼がそれでも飲みに行くとなると奥さんが千円くれるのだそうです。「えぇ?千円で呑めるとこがあるの?」私がそう言えば「ばか!あるさ!でもおまえん家に行く時は女房が二千円くれるんだよ・・・」彼が私達に甘えているのは奥様も重々知っていて、だから土産でも買っていけ・・・という事だろう。それで彼は「だけどサ・・・おまえん家だから良いよね!俺、これを次に飲みに行くときのために貯金するの」細やかな細やかな貯金に私達は笑った。子供等も破天荒で無垢な彼を愛し、我が家にゆっくり泊まって帰りはリュックに土産をいっぱい詰め込んで帰って行った。末永く・・・ではなく、あれから15年して彼は逝った。この人の無垢さを世間は薄ら笑って素通りし、彼は悲しくて呑んで、嬉しくて呑んで・・・彼の身体はもうボロボロだった。我が家恒例のクリスマス会で大勢集まった中、テーブルに乗ってパフォーマンスをやったみっちゃん・・・後半、呑めなくなったみっちゃんは妙に小さく大人しくなったなぁ。数年前、夫の十年先輩で我が家の飲み会のメンバーだった絵描きで洒脱なM先生が逝き、今年の夏、やはり絵描きで私達の大事な友人Y氏が突然コロナで逝ってしまった。去年のクリスマスに、彼が設定してくれた美術館での夫の展示会へのお礼として私は深いグリーンのソフトを彼に贈ったのだ。まだ幾度も被らない内に彼が逝って・・・その帽子が戸惑う私達の元に帰って来た。彼の棺桶の上には以前私の作った夏の帽子が載せられ、このソフトの方は「彼の思い出に・・・」と私達の元へ帰って来たのだろう。この冬、夫が神妙な顔でその帽子を被った。今年も恒例の新年会を我が家でするつもりだけれど「僕の絵描き仲間はもう誰もいない・・・」夫がそう呟いた。もう一人、息子の高校時代の恩師であり絵を描き詩も書き、同人誌を発行している一廻り上のN氏・・・挫折を感じながら今はある地方の街でそれなりに人生に折り合いをつけながら暮らしている私達の息子を飛び越えて、彼は長い間私へとその同人誌に言葉を添えて送って下さっている。彼の少年期の詩・・・長らく生まれ育った島を離れても思い出はビー玉に移る景色のようにそこには突き抜ける空の下、南の島の鬱蒼と緑に囲まれた密度の高い世界が広がる。彼は絵描きと言うより私にはむしろ詩人だ。この方ももう大分年を取られた・・・何時までこの同人誌を発行していけるのだろう。こうして人生で出会ったそんな上質な人達の想いが今私達に滴るように染み渡っている。彼等に出会えたことに感謝しながらこうして私達が見送り、見送られる世代に突入したのだろう。
暮れに入ってようやく晩秋以降に頂いた多くのお手紙に非礼を込めて手紙を書き終わり、年末はこれも恒例となった我が家で友人等との年越しに、年明けて宮崎の友人宅まで新年のお泊まり!12月は遊びと仕事がみっちり詰まった日々、その全てをどうにかクリア!ただズボラな私がどうにか続けてきた月一のつもりのこのブログだけが年越しとなりました。年明けて・・・ようやくゆっくりした時間が戻って来たので、間の抜けた12月のブログとして無理矢理いれます!