日本中寒波に包まれた2月は私にとって怒濤の日々・・・を送りました。あれから今が何時なのか分からないほど・・・先日の陽気で一斉にSの好きなミモザが咲きました。幸福な黄色い花をゆさゆさ揺らしています。
加藤登紀子が歌う「酔いどれ女が 今夜もひとり~」Sの煙草焼けでしゃがれた声がまだ私の耳に残っている。そのやさぐれ感が追いつけない!と良く揶揄ったものだ。Sが命のカード、最後の一枚まで元気なまま使い終わって・・・亡くなった。
54才から創り始めた帽子の展示会が終わって地元に帰ってくると、私はSの住む隣県の宮崎の日南まで車を走らせる。双方の夫婦4人で呑んで歌いまくって夜更けまでSと語り合って・・・この二泊三日の解放のシャワーを浴びるのが何時しか私のルーティーンになっていた。二十年半ばにもなるだろうか、私の住む地元の隣町で手広く板さんが何人もいる流行っていた居酒屋、白の麻暖簾の掛った粋な店の女将がSだった。ひとり息子を亡くして「もう笑って客商売は出来ない・・・」彼等は店を板さん達に任せ、地元から逃げるように隣県に越して行った。「十年暮らす家を造って・・・」隠遁生活の期間・・・それが次第に仲良くなっていた客である私への依頼だった。建築途上、風光明媚なこの日南に通う間、私の子供等も遊びに来るようになって急速に馴染んでいった。気質の近いSと私に子供等も交えて何時の間にか本当の家族になっていったのだと思う。デッキに出れば海の望める小高い丘の上、悲痛な思いで暮らし始めたSだったが、この家をいたく気に入って終の棲家にと決めた。帽子を作り始めて10年目、折り返し記念として私はエッセイ集を出し、その中に彼等の話を載せている。彼女は真っ新な洗い立てのような愛の溢れる人だった。
彼等と私達夫婦・・・4人でよく旅をした。彼等夫婦が70になる年、隣町まで遠征してとあるスペインバルで・・・彼女の夫Hが「Yちゃんの言ってたポルトガルの鰯を一度食べてみたいなぁ」そう彼が呟いた時、少し酔いの回ったSがすくっと立ち上がり手を大きく広げて「4人で旅に出よう!Yちゃん、私達を連れってって!」彼女は資産家だった親から暮らしには充分過ぎるほどの資産を受け継いでいた。彼等の喜寿の記念に「何日でも数ヶ月でも構わない、費用はこっち持ち・・・ただしYちゃんのするような”旅”が私もしたい!・・・」日頃、彼女は私のふらり異国の旅の話を聞き及んでいてそんな旅をしてみたかったのだと言う。このお山の大将のSは大威張りで話せるのがごく小さなエリア・・・人懐っこい癖に人見知りで知らない土地では借りてきた猫状態・・・の人である。この思わぬ展開にえぇ⁈驚きながら私の「乗った!」に繋がったのだった。私の仕事に差障りのないぎりぎりの45日間、4人一緒にトルコ~ポルトガルまで5カ国の旅はとてつもなく楽しかった。私はお礼に旅のアルバムとエッセイを本にして贈った。あれからも私達は随分一緒に旅をした。日頃、彼女は早くに床につくその夫の寝付くのを待ってこの時のアルバムを夜な夜なよく眺めていたらしい。そして昨年、またあの旅に出よう!と彼女が言い出した。私は相変わらず仕事が忙しく・・・昨年は継母を送り出し親しい大好きだった画家の友人まで失っている。でも彼女が「もう私達にはもう時間が無い!来年まで・・・その後はもうないよ!」今年78才になる筈の彼女はそう言い切っていた。だから今年こそは・・・とこちら夫婦の資金造りと時間の調達のために秋は仕事を入れていなかった。なのに・・・彼女は秋を待たずに逝ってしまった。今年彼女はラッキーセブン二つ並んだ年というのに、初詣の鵜戸神宮で初めて彼女の投げ玉が遠く岩の上の輪の中に入ったと喜んだのに・・・彼女の言うとおり、本当に時間が無かったんだ。
パリに住む私の長女が一年半ぶりでこの冬独りで帰って来た。「春にしたら?桜が綺麗なのに・・・」私はそう言ったのだが、彼女は年が明けるとすぐにこの寒波の中帰省してきた。気の強いこの娘もS夫婦に随分可愛がって貰っている。昨年その娘との携帯での会話でSは「冬に帰っておいで。美味しいものがいっぱいあるから・・・」と言っていたらしい。だから・・・間に合った。その娘も亡くなる直前に彼女の家を訪れていた。我が家の子供等は実家に帰ってくると日南の家までがセットになっていた。クリスマス、子ども、孫等の誕生日になると私達夫婦がするようにSは我が家の子供等にせっせと贈り物をしてくれている。彼女は私のまねっこで、何時しか贈り物のパッケージからカードには花を、手紙まで添えて・・・そんな習わしを楽しむようになっていた。そして私達家族にいっぱいいろんな事をしてくれた上に「本当に有り難う・・・お陰で私も家族みたい!」そういう人だった。何時の間にか私達家族にとって彼女の家が第二の故郷になっていた。Sが倒れる前の日も我が家の子供等の家に彼女が贈ったイチゴがそれぞれ届いて、その日みんなS夫婦と話をしたらしい。それが子供等との別れだった。
母は私が21の明けてすぐの2月に亡くなって・・・翌年春、私は嫁いだ。あれから父は再婚し、その新たな継母にとって私は先妻の匂いがするらしく・・・私にはもう帰る家は無かった。4人の子どもを出産しても帰るのは嫁いだ家、産後の肥立ちが・・・なんて気遣われる暮らしをしたことは無い。当時は夫も気難しく、その家族との同居中で甘やかだった亡き母を想った。やがて私は手探りで人生を探し始め、わいわい押しかける客を熟し、仕事をするようになり、またこの海辺の家に移り住んでから私は完全に私を取り戻した。42になっていた。あれから若い頃のように私は異国への気ままな独り旅を始めた。Sの店に通い始めたのもそんな頃だった。そんな時間の経緯の中で日南の丘の上に彼等の家が建ち上がり、もう身寄りの途絶えた彼等夫婦と私達は何時の間にか疑似家族・・・Sは私が来るとなると遠足前の小学生のようにそわそわとしていたらしい。布団を干したり準備に余念がなく、私達夫婦を贅沢な海の幸どさんと大人買いでもてなしてくれた。元来私は呑み客は千客万来で我が家に迎えはしたものの、独り気ままが好きな質で女友達と連れだって買い物などしたことはない。まして人の家に遊びに行くなんて事すらなかった私が、50を過ぎて初めて実家の感覚をSの家で味わったような気がする。何時しか彼女の身に付ける物は全部私が調達し・・・お陰でよく姉妹に間違われるのをSは喜んだ。連泊後、帰り掛けになるとSは私が美味しいと言った特性のベーコンだのお刺身だのせっせとお持たせの準備にかかる。そして「楽しかった!有り難う・・・ここはYちゃんの実家・・・また待ってるよ」と何時までも手を振ってくれた。
それは突然の知らせだった。その三日前、Sは背中が痛くて一晩中眠れなかった・・・と言う。その電話に「それって尋常じゃないでしょ。早く大きい病院へ行って!」何度も何度も私は警告した。けれど結局馴染んだホームドクターの所で「何でも無かった・・・やはりMの祟り!」と言って笑っていた。パリに住む娘がこの冬彼女の家にも滞在し、「懐かしい・・・」と言って残して置いた「カリカリ昆布」をたくさん食べたのが原因だと彼女はいうのだ。だからMの祟り・・・と笑った。その次の日も、また次の日も「ほらね、何でもなかった!」と彼女は笑った。私達夫婦は今年春で閉じることになった呑み仲間のギャラリーで急遽最後の展示会をする事になっていた。彼女の電話で安心した私は翌々日、その案内状書きで彼女に電話を入れていない。その夜、彼女は急変し、運ばれた救急車の中で心肺停止・・・それから大きな町まで搬送され、その知らせに私も夫と二人3時間余りの高速を飛ばし病院に駆けつけた。突然危篤と聞かされ、ICUに横たわっている彼女・・・心筋梗塞だった。その5年前、彼女の夫が突然の癌の余命宣告から立ち直って今は元気に暮らしている。なのにSがいなくなる事なんてあり得ない!Sの事を姉のような・・・と言ったが、むしろ私は彼女から母のような愛を降り注いで貰っていたような気がする。彼女の「Yがいれば私は何も怖くはない、何もいらない!」その台詞にこよなく彼女を愛する夫が狼狽え、私達は笑ったものだ。
Sが倒れる4,5日前、彼女が唐突に「私の人生はね、Yちゃんと出会えて本当に楽しくなったんだよ。でなきゃこんなに楽しくはなかった・・・」ひとり息子を突然失った大きな失意から立ち直るに彼女は随分時間がかかった。それでも少しづつ少しづつ前に進み始め「こんど向こうの世界でN君に会ったら、お母さん、N君の分までいっぱい楽しんできたよ・・・と言いたいの」と言ってたっけ。その言葉通り、私達はいっぱい楽しんだ。そして私も私の家族もSから愛をいっぱい貰った。彼女はまるで母親のように私を愛してくれた。
Sが意識を失ったままICUに入って二十日余り・・・喉に開けられた呼吸器で話せず目をつむったままの彼女に「聞えてるでしょう?聞えてるよね。分かってるよね、Yよ!今年きっと旅に行くって約束したでしょう?」その呼び掛けに彼女は目をいっそう苦しげに硬くつむって口で何かを言いたげに呼吸器の管が何度か微かに揺れたのだ。あれから鹿児島と宮崎を何回往復しただろう。その間、微かなほんの一部の望みに私はあらん限りの気を送ったが「これが限界です・・・」と全ての延命装置が彼女から外され・・・彼女は静かに逝った。
Sの家に佇めば彼女の気配で満ちている。きれい好きで細々と拭き掃除して、いっぱい花を飾り・・・彼女は今もこの家で動き回っている。精神が健康で強気のくせに甘ったれで・・・夫のHが「ソファに僕が座っていると、ごろにゃん、ごろにゃんと言って擦り寄ってくるんだよ・・・」Sらしい・・・可愛い人だった。
彼女が何時もしていた指輪が今私の指に収まった。これだけは欲しいとSの夫に分けて頂いた。この指輪を生涯私の指に・・・これからずっと私と一緒に生きよう、Sちゃん。二人分の眼で世界を観ようよ・・・私の中にあのSの愛が生きている。