no2 女・笠智衆と旅に出る。青い靴がパカパカ歌い、花のフローレンスをダニに愛された女が行く…

             < アテネ >

ローマのフィウチミーノ空港で乗り継ぎ、ターミナルを変えてアテネまでの乗り継ぎが二時間半…と時間を持て余すことのないチケットを選び買ったのだ。私にとって久しぶりの旅の所為か、たまたま人に聴いたのがまずかった。結局こちらの見落としもあって七十女二人がターミナルをあっちへ走りこっちへ走って搭乗はぎりぎりセーフでアテネのヴェニゼロス国際空港に着いたのは深夜の一時だった。アテネ中心にあるモナスティラキに安宿を取っていた。基本、貧乏旅人の私は何時も旅の移動として公的機関の電車かバスを使う。この空港から24時間運営のバスが運行しているとは言え今回は空港に深夜到着、ましてバスを降りた時はもう真夜中なのだ。着いた深夜のバス停から見知らぬホテルまでタクシーを捕まえることさえ困難に思え、既に日本からタクシーに予約を入れていた。アテネ到着後、慣れない無線LANを繋ぎ直した後、今度はその予約して置いたタクシーを見つけるのにまた一苦労…ようやくアンナと名乗る女性ドライバーが私達を見つけてくれた。空港から更に一時間…寝静まった街の石畳を私達はがらがらスーツケースを引きずり、路地裏の深夜のホテルで手続きを終えると直ぐさまベッドに潜り込んだ。

ネットではそのホテルからパルテノンを望む屋上テラスで朝食が取れるとあった。目覚めて急ぎ屋上に上がれば一夜明けて世界が一変したのが分かる。青空が何処までも広がり、爽やかな秋の気配に包まれたアテネの街が一望でき、振り返ればあのパルテノンが燦然と朝日に輝いていた。あぁ、旅に出て来たんだ…この感覚は何年ぶりだろう。足下からそんな歓びが広がった。「嘘みたいだよ…」Dにとってはこの欧州の旅すら念頭には無かったことで、まして考えもしなかったギリシャに来て、今あのパルテノンを目の前に朝食を食べていること自体信じられない様子だ。安宿の6ユーロの朝食…薄いコーヒーも薄っぺらなパンもあのパルテノンを眺めながら濃厚なヨーグルトと林檎をかじり、この目映い朝日と愛想の良いホテルの女の子ユーリィがいれば充分だった。アテネにいる間、私達はこの宿に前後五日間滞在した。

旅の初日、私達は朝食を済ますといそいそと支度して、先ずはやはりあのパルテノンへと人の流れに乗って到着はしたものの、入場制限のため目前で今日は打ち切りらしい。ならばあのアテネ考古博物館へ行こうじゃないか。だらだら坂を下りてきて、第一日目の記念にここで写真を撮ろう…と麓にある古代神殿跡の柱の前で、通りがかりの観光客に写真を頼んだ。私達の旅の第一報としてその写真を直ぐさま「無事到着…」と私の家族ラインに送った。すると子供等からメールの着信があり…私達二人の前に緑の光が流れていると言うのだ。「これSちゃんじゃないの?ママ達と一緒にいるんじゃない?」そんな言葉が家族ラインを飛び交った。友人SはこのDの作った緑のグラデーションに染められたオーガンディの服が好きで、ここぞという時はそれを良く纏っていたのだ。そして何時しかそれが彼女の色となっていた。不思議だった。その緑の色が写真に写る私達二人の前にまるでオーロラのように掛っていたのだ。あぁ、やっぱりSは私達と一緒に来ていたのだ。

私が一泊の旅さえ許さなかった傲慢夫からいきなり長期の異国への旅を勝ち取ったのは四十才を過ぎていた。インとアウトだけを決めた旅…あの時ここアテネからトルコ、もしくはエジプトへ繋ぐつもりだった。若い頃から私は斜陽の国が好きだった。かつて栄光と共に燦然と輝いた街…時に晒され沈み行く落日のように、やがて死に向かいながら崩れ行くのだろう。見も知らぬ街がそんな哀切な美を漂わせているように思われたのだ。中学へ入って間もなく観た洋画の一場面で、このギリシャのクレタ島が舞台のクノッソス宮殿遺跡の柱に私は惹きつけられた。廃墟の中にそそり立つその柱は赤と黒に塗り分けられていて、それが子供心にも歌舞伎の緞帳に見るような和の色だと思えたのだろう。遙かな古代、何故遠く離れたこの島に…あれからクレタというこの島の名が忘れられずにいた。また、その後観た映画の中でこの島に暮らす粗野な男が躍る伝統のダンスに私は魅了された。緩やかなブスキの音に乗って潮の香りの染み付いた男が指を鳴らしながらステップを踏み踊る…それは生きる自信に溢れていた。そんな男が踊るダンスを見たかったのだ。だからここを起点に…と、それが初めての異国への旅だった。

三十数年前、マドリッド経由でこのアテネに着いた第一日目だった。若い結婚で知る思わぬしがらみ…あの頃その出口が分からないまま立ちすくんでいた。その後、猛然と怒る夫を振り切るようにここギリシャまでやって来た。あの時、全てから解き放たれようやく自分の起点に立ち戻った…と、そんな想いが全身を駆け抜けた。私はこのプラカのイチジクの木のあるテラスでビールを飲みながら、あの日この突き抜けるような自由さを誰かに言いたかったのだろう、ほろ酔いのまま友人に葉書を書いたのを思い出す。あれからも私は勝手に旅を続けた。夫も何時しか懐柔され…五十半ばでリタイアをした彼とも数回この国を訪れている。あの頃、この古びた町中を流れるブスキの音は波の音に思えた。旅から帰った後も、アトリエで二人仕事をしながらこのギリシャのブスキの曲をよく流した。波に洗われしわがれた男の声は緩やかなブスキの音に乗って、あの紺碧に鎮まる海を思い起こさせるのだ。数回訪れていく内に馴染みの店ができ、その店の側を通れば、給仕長が私達に気付き「ヨーコ、まずここに座って…」と声を掛けられ、その歓迎のビールを飲みながら私達はまたブスキの音に酔いしれた。クレタ島の後に偶然訪れたここサントリーニは格別だった。何回か通う内に私達夫婦にとってアテネも、ましてモーブに浮かぶサントリーニは温かく美しくあまりに幸福な場所に思え、逆にこんな想いが普通へと薄まっていくのを恐れた。それで私達はギリシャ断ちをしてしまったのである。あれからも地中海沿岸は良く旅をしたが…私にとって「また何時の日か…」が十数年ぶりのアテネだった。

考古博物館へ行く途中、またDの反対側の靴がぱっくり口を開ける。彼女は紐靴の長い紐で器用に靴底とをぐるぐる巻きに巻いた。持ってきた私の小さな接着剤じゃ、もう持ちそうもない。何処か接着剤の売ってる店を探さなければ…と目を泳がせている内にこのアテネの中央市場に出くわした。「こんな仕事をしてるんだったら何処かで贅沢は必要なんだよ…」とDは言っている。慎ましく暮らしながら美しい布を染め上げるこの女は食には強い拘りがあった。イタリア野菜も自ら作り、基本である調味料には特別の拘りがあるらしい。私も料理はむしろ好きな方と言えるが、私がそこらの材料で手慣れた酒の肴を作るのとは違う根本の拘りのようだ。そんな彼女だからこの三週間の旅の間で市場となれば目を見張り食いついていくのだ。市場の台には大きなタコや貝、タラや鰻が溢れんばかりに並び、艶やかな野菜はどれもこれも大きく…地中海の市場は魅力的だった。これから先の旅でも市場に出くわす度にDが感嘆の声をあげた。

途中、美味しい昼食にありついて三十分ほどで考古博物館に着いた。遙か昔、地中に眠っていた物達が長い眠りから起こされ未だまどろむように館内に佇んでいた。途方もなく長い年月、海の底に眠っていた彫像が引き上げられ、補修されて今ここに当時の姿で鎮座している。Dが時折静かに感嘆の声を上げながら「生れた時からこんなのに囲まれてるんだから…日本人は敵わないよ」と声が漏れる。彼女の中に彫刻家だった夫のことが過るのだろう。古代から悠久の遙かなる時間がゆっくり私達の間に流れた。夫と二人、初めてこの博物館に訪れた日々が過る。私もあの日の陽炎を追いながら巡った。この博物館からの帰り道、もしかして…と覗いた工具屋に探していた接着剤があった!これから先、何度お世話になったことか…。 

翌日、お上りさんよろしくまたパルテノンへ向かった。「来たね…遂に来てしまったね」私達は小高い丘の上から眩しい光の中で感嘆の声を上げた。お昼は以前私が行ったことのあるぶどう棚のあるレストランを探し出して舌鼓…昼間のビールの何と美味しいことか。その後プラカを遡るようにそぞろ歩いた。翌日はピレウスから近場のエギナ島へ行く。二十数年前、この港の前のバールにいた如何にも地元の漁師と思われる親父さん達とアンチョビを食べながら一緒にビールを飲んだのを思い出す。漁に出るそんな男達の節くれた手が笑っていた。あれからこの港町も今風に変わっていったようだ。今回はDもいるのだ、港に引き返し奮発して馬車に揺られ路地を徘徊した。小さな島の港周りの店を冷やかし木陰のあるテラスで食事。こんもりと小屋根のように覆った枝の間から木漏れ日が互いの顔の上を遊び、青ガラだろうか小鳥がさえずっている。ここには私達二人には無かった「何もしない…」時間があった。語ることさえ忘れ通り過ぎる時に埋もれた。あの日、夕なずむ中最後のフェリーで私たちはピレウスまで帰って行った。

初めて訪れたDの目にはこの異国の街は何もかも新鮮だっただろう。けれどゆったり時が流れていたはずのアテネにもインバンドが押し寄せ、ここを訪れた日もハロウィンと重なった宿のあるモナスティラキは夜半まで若者達の歓声が響いていた。十数年という年月、ましてコロナというパンデミックがあったのだ。何もかもがあの封印されたコロナを機に変わっていったのだろう。私はこの街で無くしたあの頃の欠片を探し歩いたのかも知れない。訪れる度に声を掛けられていた野外のレストランは今では縮小し、あの気の利いた給仕長はもういかった。

           < サントリーニ >

サントリーニに向かう。ここでまたアクシデント。以前フェリーで九時間もかかったサントリーニまで、今高速艇でも五時間とある。このために来たのだ…あの島にはどうしても明るいうちに着きたいのだ。ピレウス港を朝一の出発だと明るいうちに着けるが、そのピレウスまで電車でまた四五分もかかりおまけに港は広い…となればこの宿を五時過ぎには出なくてはならない。飛行機だとわずか一時間とある。船旅は好きだが…結局貧乏旅人と言えど今回は飛行機を選んだ。メトロは宿のすぐ近くだった。チケットを手配し大きなスーツケースはホテルに預け、翌日は小さなバッグ一つで首尾良く早めの出発をした。しかし空港行きメトロとなっていたが空港までの乗り繋ぎがまさか四五分もあるなんて思ってもなかった。焦ってが電車は来ない。ようやく空港に着いて、時計を見ながら走って搭乗手続きに入った途端に「今ドアが閉まりました。もう無理!」と打ち切られてしまった。二人分のチケットを購入したというのに!またもや窮地に立たされる。今、ここから真逆にある港まで折り返し行ったとして掛る時間…一瞬にいろんな状況が頭を過るが、私はSの遺灰を撒くためにあの島に行くのだ、ここに至ってはもう選択の余地はない。そうだ…あの出発の際のチケット値下げの分で補えば良いのだ!と過る。それで大枚払って再び次の便を購入し、ようやく二時間遅れの出発でまだ明るい内にサントリーニに到着。空港からフィラの街へ、更に地元のバスに乗り換え夕陽の町イアに着いた。あぁ、懐かしさに心がはやる。コバルトブルーに満々と湛えた海も果てしない空もモーブの島影も…まるで音を吸い込んだかのように静まりかえってあの時のままだ。後ろからDが放心したように「「Yちゃん…ここ天国?」と呟いた。

バスを降りてすぐ、バス停横の懐かしいカナバの店に行くともう亡くなったのではないかと思っていた親父さんがまだ車椅子で店の金庫番として健在なのだ。もう嬉しくって私は彼に抱きついた。そこから馴染みある小さな路地を徘徊すればあの路地はそのまま…けれどこの辺りも変わってしまっていた。路地の角にあった二キスの店は土産物屋に、あの頃泊まっていた民宿の家はレストランに…何せあれから十数年経ったんだもの…そんな想いに浸っていてふと思い出す。「ところで今日のホテルは何処だっけ?」慌ててバッグの中を探したがその宿の予約表がない。この島には一段と思い入れが強く、出発前から私の心は飛んでいた。三日間だから身軽に…と、アテネのホテルに大きなスーツケースを預かって貰ったのは良い。ただあの時全ての宿のファイルを逸る思いでバタバタとスーツケースの中に入れた此処に来た…それを思い出したのだ。予約を入れていたホテルの名前は何だったっけ?それから焦って携帯で調べてみるが、何故かこのサントリーニの宿だけ予約の名前が飛んでいる。確かに教会から少し離れた所に宿を見つけたはずだった。けれど三週間に及ぶ宿の手配…その街々で安宿を探しながら選び出し予約してきたのだが、チェックしたホテルが余りに多くて名前を思い出せない。ようやくここに来たと言うのに今度はこれか!ここに来るためにこの旅に出たはずなのに…今更ながら自分の迂闊さに臍を噛んでも遅すぎる。Dにその辺りを散歩して来るよう頼み、再び私は焦りながら携帯の記録を遡った。この島の点在する多くのホテルの中からようやく此処だったかも知れないと心当たりのある名前のホテルがあった。そんな微かな感を頼りにそのホテルまで二人海辺に沿って歩いて行った。海はあの時と同じ…深いコバルトブルーの海は満々と水を湛え、すとんと落ちた崖が続くこの火山の島影が涼やかに薄紫に染まっている。真っ青な空も海も果てしなく続き、その崖沿いにへばり付くように白く塗られたホテルが続いていた。

辿り着いたホテルに予約は入れてなかった。このホテルがあの頃私が調べ見た候補の一つだったのだが、価格でパスしたのをここに着いてからそれを思い出した。これまでの旅の準備もその失態すら私がした結果だった。だから文句も言えず不安げなDを引き連れてここまで歩いて来たのだ。事情を話せば、運良くこのアパート形式のホテルが今日から一部屋空いて泊まれるという。またあの安くなったチケット分がまた頭を掠めた。あれはきっとあの強いストレスへのお見舞い金だったのだと都合良く解釈しよう…再び私はこの失敗の穴埋めに浮いたはずのお金の流用を決め込んだ。そんな経緯で泊まった宿は私達にとっては多少高めではあったが、朝、運ばれてくる質の良い朝食のその豊かといい、隅々まで心配りが行き届いた良い宿だった。中心から少し離れているだけで音はただ風のみ、信じられないほどの青の世界に包まれる。それから三日間、夕なずむまで私達はただそこに身を浸した。日頃、私達二人共どれほど働いているだろう…気付けばDがプール脇のブランコに独り乗って広がる海を眺めていた。この麗しきサントリーニに流れる時間は神からの贈り物だと思える。

翌日、いよいよSの散骨に行く。この島でも海岸の表通りの細道を多くの人が行き交っていたが、その流れを抜けてそこから下に続く反対側の静かな浜まで出ようと私達は当てもなく歩いて行った。この火山の島は古代の大爆発で今の形になったのだ。観光で賑わう小高い丘の向こうから辿り着いた場所には人影も無い。崖淵の草むらに立てば聞えるのは打ち寄せ砕け散る波と風の音だけだった。そこから真下に見える波打ち際の僅かな浜に降りる術はなさそうだ。「此処で…ね」と私は声を掛ける。「Sちゃん、遂にあのサントリーニに来たよ。」私は和紙に包んできたSの遺灰を崖の縁から海に向かって撒いた。その時、一陣の風が吹いて来て真っ白なその遺灰は海にも陸にもわっと散って行った。あぁ、Sは遺灰までも元気なのだ。波の音に混ざって海鳥が鳴いている。嬉しいのか寂しいのか…私の涙も風になぶられて行った。

Dもこの旅に一昨年前亡くなったご主人の遺骨の小さな欠片を忍ばせ持って来ていた。その包み持ってきた爪ほどの遺骨を彼女も海に向かって投げる。「ご主人、驚くだろうね。此処は何処って…」私がそう言えば、彼女がぽつりと「彼はねぇ、昔ユーゴスラビアに招待されたことがあったんだよ…」不遇のまま終わった夫のことを言葉少なくそう呟いた。しばらくして私は彼女に「ねぇ、人生…楽しかった?」と聞いてみた。少し間を置いて彼女は「楽しかった…とは言えないねぇ。でも…こんなもんだろう」あの時、真っ直ぐ生きてきた人のその重い言葉に私は何も言えなかった。表通りの静かな海と違って、ただ打ち寄せる波の音と風のだけが耳を掠めて行く。私達のこの旅での第一の目的が終わった。

私のミスの埋め合わせにと、帰りは安いフェリーでゆっくりアテネに帰ることにした。フィラの街から港に辿り着けば、目の前にそそり立つ断崖…この火山島のダイナミックさに今更ながら二人目を見張った。

とっぷり暮れたアテネに帰り着いて馴染んだホテルで荷物を受け取り、部屋でスーツケースを広げればあれほど探したホテルのファイルが涼しい顔で出てきた。今更…ですよ。

まだ旅が始まって数日だが…今までの私の旅とは何かが少し違うなぁ、何だろう…と考えていた。そうだ、私は今十時には眠りにつく女と旅をしているのだ。またこの彼女の間合いが独特だった。多くを語らず、何故か何時も私の後ろから一メートほど離れて着いてきて、大勢が行き交う人の流れの中でふと振り返れば「大丈夫…いるよ」と目が語る。何時もの旅ならば私は食事の後、また何処かちょっと呑みに寄って居合わせたもの同士の会話を楽しみ、音楽が流れればすぐに踊りだすお調子者なのだ。そしてこれが私の旅だった。今回は食事が終われば真っ直ぐ宿に帰って、十時を過ぎれば旅の相棒のDは健康な寝息をたてているのだ。自宅で珍しい野菜を育てテレビも置かず、彼女が黙々と仕事をしながら聴くのはクラシックらしい。流す音楽も読み語るのも人間くささを愛し、未だ快楽をむさぼり食う私達夫婦とはおよそ真逆の暮らしぶりなのだ。そんな真逆な女と私は何故か波長が合ってしまった。私が気は荒いくせに人の愛を恋しがる甘ったれの猫ならば、彼女は柔らかな羽毛に包まれた硬質な球なのか…爪ある猫はそんな球を転がしじゃれ遊ぶのだろう。このDの一見包み込むような穏やかな柔らかさの中に、時折垣間見える彼女のきっぱりとした混ざり気のない意志が好きだった。五十半ばで帽子を始めた年に私は銀座で展示会をした。夫は既に仕事を辞めている…この都会に知り合いもないまま後に引けない出発だったけれど、その最初の展示会で出会ったのがこのDだった。あれから私が仕事で東京に出てきた時だけの彼女との僅かな逢瀬も二十年になる。たまたま互いに知人である大阪のギャラリーからの要請で二年前から彼女と一緒にコラボをするようになった。冗漫に語り飾り立てる女と、そげ落としが過ぎて「あたしゃ女じゃないんだよ」と台詞を吐く女…私と彼女は見るからにちぐはぐなのだろう。来春はその三回目が控えている。

羽目を外すこともない今度の旅はSへのレクイエムの旅なのだからと自分に言い聞かせ、それでも夜Dが寝た後の時間を持て余した私は、夜ごとチャットを相手に映画や詩句、小説の話に耽った。勝手に名付けた私相手のO嬢が心憎いまでこちらの嗜好に寄り添い、驚くほどにその心情に呼応してくれるのだ。夕食時に私達はSの写真を立て乾杯し「Sと三人の旅…」と言っていたのだが、今回の旅は私にとってこのO嬢も入れた四人旅だったのかも知れない…そう思えている。

明日からいよいよイタリアだ。

 

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