no3 女・笠智衆と旅に出る。青い靴がパカパカ歌い、、花のフローレンスをダニに愛された女が行く…

              < ローマ >

久しぶりの旅とは言え、出発前から何かとアクシデント続きだった。だからイタリアへ移動の日、アテネのホテルを早めに出て今回は首尾良く国際空港に着いて難なく…のつもりだった。ITA航空のカウンターが開いたので私達は搭乗手続きをするため並んだ。ところがいきなり「今日、お客が多い場合、遅い午後の便かもしくは明日の便に…」と言われたのだ。ここで意味も分からないまま引けやしない、「何故、どうして…私はこの便のチケットを持っているというのに!」乏しい語学力の中から抗議の台詞が矢継ぎ早に出て来る。思えばこの航空チケット購入の際、あと6席しかない状態で私は焦っていた。こんな項目の着いたチケットなど今まで買った事はなく、私はずらずらと並ぶその項目を斜め読みしたと思う。その際なるべく安く手に入れようと細かいオプションも全て×印のままチケットを購入したのだ。それがまずかったらしい。後から分かったのだが、私が購入したチケットはブッキングクラスの中でも一番安いチケットだったため、こんな場面に遭遇する事もあるそうだ。トラブルとみた男性の係員が現れて私達をうるさい客と見なしたのだろう。やり取りをする内に「その時は…じゃあ、こちらがボランティアとして200ユーロの保証金を出すと言うことで…」と言われたのである。ボランティア?その言葉に反応し、意味が分からないとまた私達も猛然と抗議。それでも今度の便で行けると信じてボーディングの未完了のまま、私達はeチケット無しに取りあえず搭乗口に並んだ。客がぞろぞろシャトルバスへと流れ始めた頃、さっきの係員が追いかけて来て人垣の向こうから「マダム、マダム」と大きく手を振った。手には私達のeチケットが2枚揺らいでいたのだ。間に合った…私達も彼に手を振りながら「儲け損なった!」と笑いながら叫び返した。

まるで毎回クイズを解いて次のステップに上がれるような今度の旅…それでもローマ、フィチウミーノ空港に予定通りに到着。ここも何時もならばテルミニ駅まで電車なのだが、今回は安い空港バスに切り替える。テルミニ駅でバスを降りて前もって地図で確認しておいたB&B、ホテルではないのだから看板など出ているはずもなく、人に聞きながら探す。ようやく辿り着いた分厚い扉のインターホンに小さくに予約したそのB&Bの名前が書かれていた。やはりここか…とそのブザーを押すが反応はない。予約表に記載された番号に電話に掛ければ「シニョーラ、場所が違う。」と向こうで年配らしい男が言う。でもここの扉にはその宿の名前があるのだ。訳の分からないまま、そのやり取りを何度か繰り返し…ようやく通り名が違うのに気付いた。何故かプリントアウトしたこの場所とは違ったらしい。予約した同じ名前のB&Bがもう一つ駅を挟んで真裏にあったのだ。客がある時だけその彼がやって来るのだろう、入り口の大扉の暗証番号に始まる幾つもの鍵を渡された。その後このB&Bで私は大変な目に遭うことになる。その予兆もないまま私達は荷を置くと懐かしい通りへと出て行った。

駅を横切りサンタ・マリア・マッジョウレ教会前を通って真っ直ぐ進んで行って…私は何時もこの近くのパステリアで寄り道して袋入りのババを食べながらコロッセオへと向かう。これをこれまで何度繰り返してきたことか。

五十過ぎて夫は望むまま早いリタイアをし、そのため私も仕事を変えて私達夫婦は人生の第二章へと突入したのだ。この二十年の楽しかった事…しかめっ面の夫からこそこそと旅を続けていた女はそれを機にどうどうと旅する女に代わり、夫まで呉越同舟で有無を言わさずそんな旅の道連れにしてきた。私はこの古代と中世と現代が猥雑に混在するローマに来ると「生きている」と全身で思えるのだ。

夕刻迫るサンタ・マリア・マッジョウレ教会で今日も鐘が鳴っている。何かセレモニーがあるらしく多くのシスターや司祭達まで集まっていた。この教会前からリベリアナ通りの方に少し行って右に折れれば、地元の人に教えられてから行くようになったテラットリア・フォルケッタがある。7年前S夫婦と4人で行った時も私達が席に着くなり「ヨーコ、これが好きだったよね」と無愛想な親父さんが注文を取る前に、ずらりと奢りの料理を並べてくれた。あの店がまだあるかな…私は堪らず小走りで路地を走って行く。あった、あった…灯りの付いた店にあの親父さんが相変わらず無愛想に給仕していた。やはり店の前には今日も待っている客がいる、此処は地元の人気店なのだ。席に着き見渡せば旅人からだろうか、壁一面に手紙がいっぱい貼られていて、Dもこの地元らしいトラッテリアが気に入った様子である。座ればすぐに注文はまだだと言うのに肉団子のトマトソース煮が出て来て「あたしゃ、もうこれで良いよ」と、彼女が美味しそうに頬張っている。そんな訳にはいかない。そもそもそれは小父さんの奢りで…第一私の胃袋は鳴っている。カプレーゼを頼めば新鮮なトマトにゴロゴロと大きな水牛のモッツァレラが大皿一杯に盛られ、海の幸のラビオリ…またこれの美味しいことと言ったら!どれもこれも家庭的な味でその量が半端ないのである。もう入らないと察したところで親父さんがまた私達にサービスの大きなティラミスにレモンチェッロを運んできた。もう何処にも入りません!ローマ第一日目はこうして暮れた。

朝起きて…首の後ろに痒みが…触れば二カ所大きく膨らんでいる。その時は蚊にでも刺されたのかなと気にもしなかった。Dには初めてのローマ…ならばと観光へといざ出陣。駅を抜けてセント・マリア・マッジョウレ教会前を突っ切り、先ずはコロッセオへ向かう。その前にナポリ名物リキュールいっぱいのババを…と馴染みのパステリアへ寄り道したのだが、もうそこはただのカフェに替わってしまっていた。時は流れたのだ…とうら寂しさを飲み込む。今日も人の流れは皆コロッセに向かっている。その流れに乗って歩けば、いきなりあのコロッセオがどんと姿を現した。私はイタリアの中世史に惹かれてはいたが、以前までここは絵葉書を見れば充分なベタな観光地だろうと軽視していた。だからあの頃は野趣溢れる北アフリカの方へと独り旅を続けていたのだった。ある年、私はシシリー島に行くつもりでローマ経由を選んだのだ。そしてここローマの地を初めて踏んで正しく恐れ入ったのである。あのネロが何万もの群衆を熱狂させるため造った数々の仕掛けあるコロッセオ…そのコロッセオが二千年もの時間を超えて突然目の前に現れ、今日も悠然ととそそり立っていた。丸く天空が空いた巨大な柱のパンティオンも…あれから幾多の戦争、風雪に晒されながらそれらが厳然と今もこの街に居座っているのだ。イタリア映画から垣間見るこの街の軽妙さも重厚さも…このローマにはそんな古代と中世と現代が猥雑に混在していた。それ以降、何処に行くにしても私は旅をローマ経由にしてしまった。あれから訪れたこのイタリアに点在する小さな街々…往時と変わらぬまま石壁にそれぞれの歴史が染み付いていた。

 ここでのインバウンドは言うまでもない。コロッセオの前で「中を見る?」とDに言ってみたが、余りの人出に「いや、もういいよ」それで私達は外回りを歩きフォロ・ロマーノも上から眺め通り過ぎる。ここの凱旋門を抜けてカラカラ浴場の前の野っ原を横切って真実の口のサンタ・マリア・イン・コスメディン教会からテベレ川に浮かぶ戦艦のようなティベリナ島へ向かおうじゃないか…と何時ものコースを歩くつもりが凱旋門の向こうの様子がどうも違うのだ。あの野っ原がないのだ。間違ったのかな…と行きつ戻りつしてもやはり野っ原はない。あのカラカラが右手に見えると言うことはここで間違いはないはずだ。世界が止まってしまったコロナの間に整備されたのだろうか…あのだだっ広かった野っ原が消滅し、今ここが何車線も広がる道路に様変わりしたことに私はようやく気付いたのだった。あの頃までカラカラの麓で餌やりを続けていた名物の猫のお婆さんももういなかった。

 翌日、あの二カ所の痒みは首筋から肩、掌から顔、毛髪の中までパジャマから出ている分だけ夥しい数となって赤く腫れ広がっていたのだ。ここで初めて「もしかして…ダニ⁈」それは考えも付かなかった。だが同じベッドで寝ていたDは何ともない。彼女は枕にタオルを掛けて寝たのだという。この事を訴えたくともこの宿には鍵の受け渡しをした後は無人なのだ。仕方なく駅にある薬局で痒み止めの塗り薬を買って出かける。

その日、私達は猛然とよく歩いた。コロッセオからパンティオン、ナボーナ広場を抜けてトレビの泉まで人混みを縫いながら、そこから更にスペイン広場まで歩き通し、ローマ初めてのⅮはお上りさんコースを制覇…ただこの日ばかりは一旦ホテルに帰って一時間ほど昼寝をしている。陽が落ちる頃になって川を渡り懐かしいトラステベレへ。ここも何度も来ているレストランがあった。デル、モーロ…7年前も四人一緒にこの人の流れの混み合うこの路地のテーブルで食べたっけ。すぐ脇には人の流れ…そんな喧噪の中でDは落ち着かない様子であったが、胃袋の方は喜んでいたようだ。初めてこのレストランを訪れ室内の方で食事した時、別のテーブルから誰かが私の帽子を指刺しながら「私、あなたが歩いてるのを見たわ…」と言った。私は何時も小さな帽子を被っている。その形が面白くて印象に残っているらしい。すると別の席から立ち上がった一人が「僕も見たよ。A通りを歩いていたよね。」と、また他から「僕も見たよ。」と声が掛った。あの時私は映画のワンシーンのように立ち上がったまま皆に手を広げ笑って礼をした。この帽子のお陰で覚えて貰うことが多く、旅先で向こうから楽しさが飛び込んで来た。

スタッフもあれから替わったのだろう。ただ一人、以前いた給仕で見覚えのある彼が「君を覚えているよ、長く来なかったね。」と言った。食事の帰り、私達が橋の袂の広場に出ると歓声が聞え盛り上がっていた。この広場では何時も誰かがパホーマンスをしている。ここは誰もが立っても良いステージなのだ。今宵はアフリカの青年達がアクロバットをしている。私達も階段に座り歓声を上げた。とっぷり陽が落ちて橋を渡れば向こうにライトアップされたサンタンジェロ城が浮かんでいた。

あの私の例の痒みは三日目にはさらに広がり…チャットのO嬢に聴けば、「着ていたものを直ぐに洗うか密封しなければならない」とあった。聴くのが遅かった。次の日にDと同じように枕の下にタオルを置いて、これで良しとあのまま同じパジャマを着て就寝したのだ。多分、目に見えないほどのダニはパジャマの袖と首回りに付着していたのだろう。慌ててパジャマをしっかり洗ったのだが、もう遅すぎた。ますます酷くなっていくダニ跡、ボコボコになった顔であの花のフィレンツェやベネチアを歩けと言うのか…待ちに待った7年ぶりの旅だというのに余りに情けない。幸いDの作った黒いチュールのインナーで首も手の甲まで覆い隠せる。後は帽子を深めに被って…と、これで行くしかない。その事をO嬢に告げれば「ダニに愛された女が花のフローレンスを歩く…笑える」と返って来た。

 

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