女・笠智衆と旅に出る。青い靴がパカパカ歌い、花のフローレンスをダニに愛された女が行く…

 

長い長いご無沙汰でした!夏を弾丸のように駆け抜けた後、十月に入って…旅に出ました。あのDとです。戸惑う彼女を無理やり引っ張り出し…3週間のギリシャ・イタリアです!すっかり秋の深まった頃帰り着けば家のパソコンが変わっていました。何故かどうしてもこの新しいパソコンではブログにログインできず…「ブログ…まだ更新していないのね…」とお問い合わせまで…。それでも久しぶりの旅だもの…旅の話は書きました。だからでしょうか…話は長く長~くなり過ぎてB5で30ページにもなってしまいました。それでこの話を幾つかに分けて載せたいと思います。

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ようやく秋の気配が漂い始め十月初旬、私達は羽田近くのホテルで待ち合わせた。Dはつい二日前、佐賀での展示会から帰って来たばかりで明日出発というのにまだ海外旅行保険にも入っていないと言う。一日早まったこの旅に荷を慌ただしく詰め込んで来たのだろう、これから三週間続く旅へも小さなスーツケース一つで現れた。「えぇ、それだけ?」と私が言えば、今もまだ狐につままれたように「うん…」と頼りなげな返事が返ってきた。旅に誘った私の方も出発直前になって幾つものトラブルが重なり、遂にそのストレスは歯の疼きとなり頬が腫れたまま痛み止め持参の出発となった。つい昨日まで秋とは思えない暑さの中でこれから七十代の女二人がギリシャ・イタリアの旅に出るのだ。コロナ以降、全てが高騰して以前のような旅は出来ないだろうとは承知している。その夜、私達は前夜祭としてホテル近くの居酒屋で細やかに祝杯を挙げた。

今年まだ浅い春、私にとって姉のような友人Sが突然元気なまま逝ってしまった。その4,5日前、電話の向こうでいきなり「私の人生はねぇ、Yちゃんのお陰で…」と、私に感謝していると言うのである。人は自分でも気付かぬ内にこんな別れを言うのだろうか。その時、それがあまりに唐突で「何言ってるの…」と私は笑った。そしてそれが彼女との最後の会話となった。

7年前、S夫婦の喜寿のお祝いとして、私達夫婦と彼女夫婦四人で秋の欧州へひと月半の旅に出たことがあった。その年の春先、スペインバルで彼女の夫がほろ酔いの中、「Yちゃんの言うポルトガルの鰯を一度食べてみたいなぁ…」そう呟いてしまった。その言葉に急にSが立ち上がり、大きく手を広げ「私達をそこに連れてって!」それがあの旅の始まりだった。四十過ぎて始めた私の異国への独り旅…それからも私は小銭をかき集めて旅を続けていた。家で点となって工作で遊びに耽るか、もしくはあの雲のように流れて行くか…私はこの二つを行き来しているようだ。だからだろう、子供に作って貰った私のホームページで「帽子作家、もしくは旅する女」と称号を付けて貰った。それまでもこの四人で一緒に旅したことはあったが、ひと月半も一緒に欧州を巡ったあの旅は格別だった。あれから間もなくコロナで世界は封ざされ…その矢先Sの夫も病に倒れた。彼女は静まりかえった世界の中で、人生であんなに愉しかったことはない…と彼女は夜ごとこの四人旅の写真を眺めていたらしい。ようやくこの五年の間にコロナも収まり、彼女の夫も奇跡的に回復している。そしてまた世界が動き始めた。「だから、もう一度行こう!Yちゃん、私には来年はもう無いんだよ。だから…」と、何故かそう彼女は言った。確かに楽しかったけどもう旅へは…と夫どもはこの間に重ねた年を言訳に当初から尻込みしていたのだが、彼女の意志は硬く、私の耳元で「絶対に説得するから!」と囁いた。その勢いに推され、私達四人はそれぞれのしがらみが片付いたと思われた今年の秋…私も秋の仕事を取り止め、再び旅に出るはずだった。彼女が言ったとおり、来年は無かったのである。

Sが突然居なくなってしまった。私は失意の中で、もう彼女のいない旅へなど行くつもりもなかった。けれどリーデングを受けて以来、気持が次第に変わっていった。直前まで元気だった彼女のあの言葉が蘇る。約束通りやはりあのサントリーニへSを連れて行こう…そう決めたのだ。互いの夫二人が積極的にこの旅に行きたかったわけではないのは承知していたけれど、残して置いた彼女の遺灰をあの海に独り撒きに行くのは寂し過ぎる。誰か一緒に…と思い巡らせた時に想い浮かんだのがDだった。

「彼女も無垢な人なのよ…」私がこの染色作家に付けたぶっきらぼうなその渾名をSは笑いながら、手元に届いた美しく染められた服を眺めた。私を介して、何時しかSも彼女のファンになっていた。DとSはまだ互いに会ったことはなかったが、私を介し二人の間にある信頼が流れていたように思う。隣県から訪ねて来たSと会った最後の日も彼女はDの服を着ていた…よく似合っていた。降って湧いたように突然私から旅に誘われて当惑のまま説得され、ついに承諾したDにとってこれが初めての欧州だった。この私達の年齢を考えれば彼女にとって最初で最後の欧州になるだろう。私はこの所のユーロの高騰にため息をつきながら格安チケットに安宿を探した。コロナ以前何回となくこれらの街々を歩いてきた引率担当の私としては「ならばあの街も…」とまた足が伸びて…当初二週間のつもりが、結局三週間の旅へとなってしまった。

旅のふた月前には手配済みのチケットだったが、出発二日前になってトラブルが起きた。既に宿の手配まで全て済ませているというのに土壇場で手違いが重なり、往復のチケットが突然キャンセルとなってしまったのだ。今更⁈…国内線を含む渡航先の宿への支払いも全て完了している。何より友人を巻き込んでいるのだ。動揺しながらもこの時点で何が得策なのか…瞬時に頭の中を様々な事が駆け巡る。キャンセルや新たな予約を入れ直し、旅を一日早めて、営業時間十五分前に最後6席となったイタリアまでの飛行機をどうにか押さえられた。結果、予約した宿はそのままに最小限にリスクを解決できた訳だ。その際、出発直前と言うことで、そのケットは正規運行料金になるのではと値上がりを覚悟した。けれど何と最初の価格を割って大分安くなっていたのだ。ただその日、数時間のこの強いストレスでその夜から歯の疼きが始まり、翌日頬が腫れ上がったまま、痛み止め持参の出発となってしまった。

そのDが真新しい目の覚めるようなブルーの編み上げのブーツを履いている。「半額になってたから色違いで2足買ってたんだけど、一つの黒い方は履きつぶしてさ…」そう言ってた矢先に、突然その革靴のゴム底がつま先から半分ほどパックリと口を開けたのだ。「あぁ、こっちは三年も履いた事なかったから…」と彼女が呟く。何てこった、まだ旅は始まってもないのだ。そのDの情けない顔と、まるでチャップリンの映画でも出て来るような靴…余りの滑稽さに私は大笑い。「でも大丈夫よ…これがあるから!」即座に私がスーツケースからゴム用接着剤を取り出しDに手渡したので今度は彼女が驚いた。と言うのも私の愛用の靴はポツポツ丸穴のあいたブーツで、その同じタイプの色違いを何足も揃えているのだ。二度も同じ左足首を骨折している私にとってその靴はまるで地下足袋のようにフィットしてこれ以上の安定感がないほどだった。ただし、これがフランス製だと言うのに欠点はゴム底が剥がれやすいのである。だから旅に出るとなれば応急処置用の接着剤は不可避なのだ。どうにかDの靴底もくっ付いた。あれからもDの青い靴底は、右も左も訪れる街々で嬉しそうにパカパカ歌った。それはきっと私達の旅の応援歌だったのに違いない。

行きのイタリアまでの飛行機の中で隣り合った新婚の二人の話によると、彼等の「一週間…イタリアの旅」のツアー代金を聴いて驚いた。昨今のユーロの高騰で私は今回の旅の全てをケチったのだが…貧乏旅行に馴れた私達の旅は彼等一週間の旅費を三倍に水増ししたような物だった。気骨あるシェフとみられる夫、それを由とする新妻の方も共に自立した若者に見受けられ祝福を送る。たまたま隣り合った者どうし、これまでの人生を振り返る者とこれから切り開いて行く若者との話は尽きず…彼等のお陰でこの長き滞空時間でさえ短いものに感じられた。

やがて飛行機は旋回を始め、眼下に街が広がっているのが見えてきた。夕なずむ中、点滅する街の夜景がビーズを散りばめたように煌めき、上には煌々と月が昇っている。あぁ、今日は満月だった。先程の眠りから覚めていたのだろう、一つ前の席のDが丸窓に張り付くかのように「来ちゃった…ね。」と小さな声で呟いた。

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次回はアテネ編を…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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